事件と裁判の経緯①(2012年4月11日付書簡)

2012年4月11日付書簡

(1)事件に至る来歴(何故、ナイフを所持したか)

 私は94年、深夜の路上で交通誘導のアルバイトをしていたところ、2人組のチンピラに絡まれ暗がりで一方的に暴行を受け、歯を3本失い、側頭部が倍に膨れあがる重傷を負い、一時は意識まで失った。ところが意識が戻り、交番に駆け込む途中、加害者が乗り捨てた状態の車に傷をつけ「逃げ得」をさせまいとしたことで約30分後にやって来た刑事2人によって、事件そのものをもみ消された(5万円の示談書にサインするまで病院には連れて行かないと言われ、サインするとそのコピーも渡されず、交番から追い出された)。
 更に04年夜に遊歩道をジョギング中にノーリードのシェパード犬4匹(これ自体、都のペット条例違反だ)に襲われ、これを注意すると、(法務省刑事局所管の)「日本警察権協会」と(農水省所管の)「日本愛犬家協会(JKC:ジャパンケネルクラブ)に各々属する2名を含む男女4人組からも暴行を受け、全治一週間のけがを負った。しかし、相手の肩書きを知るや、初動の警官は私を追い返し、警察署は被害届を受理する代わりに、相手も私が抵抗した際にけがをしているとして、加害者扱いの調書を取り、検察官は「年末も近いので不起訴にしたい」「事件から3ヶ月も経っているので普通は取り扱わない」等として、双方不起訴に持ち込んだ。こうした経緯から私は500円で購入した簡素な防犯スプレーを携帯するようになったが、その翌年、粗暴運転を巡るトラブルで、車を運転していた男に車道へと押し出されそうになったので、このスプレーを使用した所、その後3日間、相手の「目が赤くなった」として傷害罪で20万円の罰金刑を受けた。男の車に同乗していた女の証言のみ依拠した有罪判決で、明らかな冤罪(正当防衛)だが、これに対する上告を棄却した判事の内の一人は、社会保険庁(当時)長官から転任してきたという横尾和子氏である。取り調べの刑事は「私は刃物の代わりにスプレーを持ち歩いていました。」と調書を作文し、私が否定すると「ああ、そういう態度なら検事さんによく言っておいてやるよ」「ナイフもスプレーも同じなんだよ」等と怒鳴り、調書にサインさせるまで取り調べを止めなかった。この刑事は今回、私が服役させられたことになった事件にも関わり、この時と同様に怒鳴り散らしている。そして裁判では、今後スプレーを持ち歩かないことを約束させられた。
 その2年後、深夜2時からの仕事に自転車で出勤する際にいつも通過する多摩川沿いの人気のない場所(職場から10メートルも離れていない)で、ホームレス男性の撲殺死体が発見され、「少年グループによるものと思われる」との報道があった。それから出勤時にナイフを携帯するようになった。この何年も前に購入していたものの、道徳や礼儀の感覚が、自らに持ち歩くことを許さなかったものである。この事実は今回の事件の一審でも「計画的犯行とまでは言えない」との判決文によっても認められている。

(2)事件の概要(報道と余りにも異なる事実)

 当時、私がナイフ以前から持ち歩いていたもう一つの「武器」がICレコーダーだ。
 ナイフが極めて特殊な状況での特定の相手に対する「威嚇効果」に用途を限定したものだったのに比べ、ICレコーダーは用途も状況も限定せず、且つ確実に攻撃者に勝つ為に選んだ合法的な道具だ。これによる「可視化」の必要性については言うまでもないが、07年当時はまだ「仕事は怒鳴られて覚えて下さい」「ここだけの話ですけど『私、精神安定剤飲んでるんです』という人には辞めて貰いました。そういう人は来ないで下さい」等という就職説明をする正社員が、大企業にも居たのである。その職場の状況は、今年ようやく厚労省が示した「パワハラ」の全ての具体例に当てはまった。加えて重大な労災事故に直結する暴力や、男には仕事を教えず失敗させる娯楽としての「指導」、更には奇声を発し続ける者やゴルフバッグ等を投げたり蹴ったり殴ったりする者等、倫理荒廃が殆どヴァンダリズムの様相を呈しており、その為、私が在職した僅か3ヶ月の間に目の前で3人の新人男性が辞職した。内一人はまじめな老齢男性だったが、彼が音を上げた日の職場、A3シューターでは「あの爺さん、もう来なくなった。ウヘヘヘ」と同僚のパート主婦に鹿児島訛りの抑揚で自慢する声が響いた。因みに全て録音している。そして次に八つ当たりの対象となった私は「会社を通して話して下さい」と説得を試み、それが一蹴されたいきさつをコントローラ社員Yに相談したが、Yがまともに聞く耳を持たなかったので、即日、これまでの実情を過不足なく捉え、極めて合理的な結論として相手の解雇を求める要望書を作成・提出した。当初は労務管理責任者に手渡そうとしたが「私がきちんと伝えるので」と粘るYに託すこととなった。
 後に、一審公判で判ったことだが、この要望書を読んだ上層部は、自身と部下のY、そして私と「被害者」の4人での話し合いの場を事件当日セッティングするようYに命じた。
しかしYは、それにより自分が残業するのを避ける為か、この指示を隠し、独断で私を配置換えにすると告げた。「怒鳴られながら」一から仕事を覚える経験は一度で十分である。押し問答(全て録音し公判で証拠採用された)の末、辞職という選択肢に追い詰められ、事務所を後にしたが、同僚に会う為その角を曲がった所で「被害者」に出くわした。最初は蹴り等の素手での争いだったが、威嚇効果の為、ナイフを取り出した。予想外だったのは、相手が自衛隊に10年以上在籍していた徒手格闘のプロだったことで、気がつくと私の左手は自分のナイフの刃を握った状態で「(素手で刃向かってきた)被害者」の両手により固定されていた。(その為私の左手の指は一部腱が切れ、曲がらない状態で腫れ上がったが警察では「若いんだからすぐ治る」と言われ、湿布を巻いた状態で一週間放置された)それ以前の私の防衛で相手が腕に負った傷が、当初開示された「検視調書」では致命傷と記されていた。

(3)公判前整理手続きについて

 紙数及び文字数制限により、以後「手続き」とだけ記すが、この「手続」が私の事件では冤罪生産の道具となった。通常、殺意の立証には胴体などの「身体枢要部」の傷の程度や状態が注目されるのだが、「手続」中に提出されたその証拠(検視調書)の中ではその部分の傷の深さは最初「0.4」と印刷され、手書きで「4.3」と訂正されていた。(二審で、この訂正は検事の示唆によるものであることが判明した)。いずれにせよ致命傷とは言えない深さであり、一審の国選弁護人2人は、「手続」においてこの事実に基づき、法廷では殺意の不存在を主張するとの方針を開示した。「手続」は裁判員裁判を前提として裁判員の負担を軽減する目的で、検察側と弁護側双方が、何に基づいて何を主張するか、予め手の内を明かし合うという実質的なリハーサルである。そうして「手続」は計5回行われ、終結した。
 ところが、初公判の3日前の午後5時過ぎに、検察から弁護士事務所のFAXに、「解剖鑑定書」と題された数十頁に及ぶ写真入りの資料が送られてきた。
殆どの部分では既出の検視調書と同内容だったが、件の枢要部の深さが(0.4から)「11.8」に、そしてその隣の傷が(4センチ余から)「11.4」へと大きく変化していた。検察はこれを初公判で証拠請求するということだが、通常の「手続」のルールでは請求できない時期である。何より裁判員が裁いた場合、これを看過する筈がない。しかもこの鑑定書の作成時期は、計5回行われた「手続」の第3回目の最中であり、検察はこれを入手しながら隠していたことになる。但し、こうした場合でも、止むを得ない事情があったり、事実解明に必要と裁判員が判断するに足る「疎明資料」が明示された場合は、こうした「後出し」も容認されるという「抜け道」が、現行裁判員制度には用意されている。(とはいえ、現実にこれが許されるのは検察側が行った場合に限られていると、弁護人は言っていた)。しかし私の裁判は「手続」だけは導入しながら、これが前提とする裁判員裁判では行われず、「止むを得ない事情」も「疎明資料」も皆無ながら、職業裁判官3人により無条件に採用された。

(4)一審の展開(職業裁判官の危うさ)

 弁護人はこれに対し、「手続」中に出ていた「検視調書」に「0.4ないし4.3」と書いた警察官と、鑑定書に「11.8」と書いた解剖医の証人尋問、及び、各人が各々を作成する際に根拠としたメモの提出を要求したが、メモの提出要求は即時却下された。2人の証人尋問は行われたが、事前に検事と打合せを重ねた上で法廷に臨んだ両者はといえば、ほぼ全ての質問に「私の間違いです」と反復回答する警察官と、「何故同じ解剖からこれほどかけ離れた数値が記録され得るのか」との質問には「分かりません」と答え、また自身の鑑定書作成が検視調書に比べ4ヶ月も遅れたことについては「いつもいつものことながら、他の仕事に忙殺された」と弁明する解剖医のいずれも真相究明に協力的とは到底思えない不自然な態度に徹した。ただ解剖医の「いつもいつも」との証言は、二審以降重要な証言となる。
 理由もなく、隠し持っていた、弁護側に不利な証拠を、公判3日前にFAXで開示する検察の手段が、裁判員に容認されるとは思えない。
しかもこの鑑定書作成者がただの「助教(助手)」に過ぎず、作成者として冒頭に署名している法医学教授が現場に立ち会ってすらおらず、アドバイスすら行っていないことが明らかになったとあれば、尚更信用される筈もなく、鑑定書は証拠却下されて然るべきだ。
 しかし実際には、被告人質問で私がこの鑑定書の数値に「いかがなものかと思う」と一言、疑問を挟んだのに対し、山崎和信裁判長が、持っていたペンを放りながら「そういう考えはおかしいんじゃないですか。普通に考えたら、解剖した先生がこういう風な怪我の状況ですと言っていれば、それは特段のことがなければ、その通り間違いないと思うんじゃないですか。うそをついていると思うんですか」と質問し、事実上叱責している。そもそもこの時点で私は鑑定書を見せられておらず、その内容を知らない。であるから口頭での証言に不審・不合理な点があれば、疑問を抱くというのは、たとえ「先生」の肩書きの相手に対してであっても、「裁かれる側(被告人)」と「裁く側(裁判員)」の立場を超えて共有され得る普遍的な価値観だ。しかし山崎氏はこの私の発言を以て「本件を機に自己の問題点を真摯に反省しようとする態度が乏しく、」「その矯正は容易ではない」との判決文に結んでいる。山崎氏は裁判員裁判開始半年後の09年10月に「精神の発達の遅れ」がある被告に求刑通り無期懲役の判決を下し、高裁で破棄されている。また10年3月には弁護側から「検察側の、裁判員を意識した過剰な演出」と非難された手法を追認し、6人の女性への強姦致傷に対し求刑通り無期懲役を言い渡している。同月にさいたま地裁で8人の女性への同罪への判決が懲役21年に留まったことに鑑みると、山崎氏の処罰意欲はヒステリックにすら映る。そもそも「感情処罰」などというものはあってはならない。そうした事情により、山崎氏が「部総括判事」として重大事件裁判の多くを指揮していた東京地裁立川支部では、10年4月、裁判員裁判で初の無罪判決が出て話題となったものの、この時ですら、「やるべき捜査をしていない」と裁判員から指摘されたにも関わらず、地検内部には「改めて裁判官だけで判断すれば有罪になる可能性がある」との意見がくすぶり続ける土壌が育まれた。山崎氏は、金沢地裁判事補として法曹キャリアをスタートさせているが、その後約3年間検事に転じており、その後また判事に戻り、前述のような検察への先行服従と呼ぶべき訴訟指揮を繰り返し、現在も広島地裁岡山支部長として司法の世界に留まっている。

(5)二審の展開(証拠開示を巡る争い)

 まず、先述の鑑定書がどう扱われたのかというと、高裁の裁判長が三者協議でこれを問題視し、検察側に「検視調書」と「鑑定書」それぞれの基となったメモの開示を促した。
しかし間もなくこれに抗う動きが3か所で起きた。この動きには裁判所や検察だけでなく弁護側の問題も顕著だ。
 ひとつ目は、検察が検視調書の基となったメモの開示を拒んだことで、検察はこれに対する判事らの反応に予め備えていたかのように、メモの内容を項目別に「まとめた」という「一覧表」を提出する、という代替案を示した。弁護側さえ納得すればこれで済ませたいという。弁護人は「捜査機関は面子を一番重んじるから、よくあることなんですよ」と述べ、予め検事から受け取っていた一覧表のコピーを差し入れてきた。しかしその内容を見ると、件の枢要部の「0.4ないし4.3」が「9.3」に変化している。このメモを取った警官は一審でこの部分が「4センチ」余りであったと明言している。この誤りを指摘したところ、弁護人はその場では受け流し、後に検察庁に赴いて検事との対話の際にこの指摘を伝えたという。そして、「メモと一覧表を比較し、その真実性を確認しました。これでいいですか」との手紙と共に再度一覧表のコピーを送ってきたが、そこには検事の「(枢要部について)メモ作成者は一審で4センチ余と述べたが、メモには9.3とあるのでこちらが正しい」との注釈が加えられていた。この一覧表の提出を以て検察弁護人双方の手打ちとする意向が両者の言動から窺えたが、私は「メモと表とは記載方法が異なるので厳密な比較はできない筈」と猛反対し、あくまでメモそのものの提出に固執した。結果提出されたメモでは、不自然にも件の枢要部の数値だけが別紙に分けて書き加えられていた。これなら後から幾らでも付け足せる。
 ふたつ目は、解剖医の助教が鑑定書の基にしたメモを検察がそもそも証拠として入手していなかったということだ。今回の裁判員制見直しにおける証拠開示問題について日弁連は、検察が持つ全証拠の「リスト」開示で良しとし、対して「裁判員経験者ネットワーク」の田口真義さんらはあくまで「全証拠そのものの開示」を求めており、この点だけでも相当な温度差が窺えるが、一見厳しく見える田口さんらの要求に対してすら、ここでは既に「抜け道」が用意されている。ここで検察が用いた手段は、検察自身が証拠隠しをしたとの誹りを免れる為、解剖医の口から、自分がメモを提出しない理由を語らせ、検察は、その発表処理に徹するという一種のカモフラージュだった。この「捜査報告書」で解剖医は、「今後メモが開示される場合があるとすると、メモ自体の作成に正確性を期する必要があり、(略)多大な労力を使うことになり、(略)肝心の解剖作業に集中できなくなる」と述べ、また「私は現在、創傷を外部的に観察してその旨助手にメモさせるが、内部を開いた結果、その創傷の見方が当初の見方と異なる場合があっても、その点は自己の記憶に留めておき、鑑定書を作成する段階でそれらを統合勘案して判断している場合があ」り、「自己の記憶で十分足りると思ったこともメモさせておかなくなる」とすれば「解剖」メモの作成自体に多大な精力を注がざるを得ない状況にな」り、更には「その責任を助手が負うとなれば、これを嫌って解剖メモを筆記する者自体がいなくなってしまい」警察官が取るメモとの齟齬が生じた場合を想定すると「後日の紛争を怖れてメモの録取を禁止せざるを得ない事態も考えられ、そうすると警察の捜査にも支障をきたすことになる」からメモは開示できないと述べているのである。執刀医として筆頭に署名している教授が立ち会いもアドバイスもしていない状況で、現場を仕切る助教(助手)が、実際の解剖から鑑定書作成までに4ヶ月ものタイムラグを生じさせる程、忙殺される事態が「いつもいつも」のことであるにも関わらず、切開後の状況を記憶に留め、正確なメモを作らない事自体、非常識であり、田口さんらのような裁判員にとっては侮辱以外の何物でもない。尚、この鑑定書には素人の私でも分かる誤記が7~8か所あった。
 三つ目は、2つのメモの開示を検察に促していた裁判長が初公判直後に異動を命じられた事だ。名目上は出世したとの事だが、11月半ばの突然の異動は傍目にも不自然だ。そして、後任として裁判長になったのは、後に公務員の、休日での政党紙配布への有罪判決で、朝日新聞社説(2010年3月15日)等で名指しで批判される事になる出田孝一氏である。佐賀地裁所長職からの移転で、東京高裁での初仕事だという。検察はこの頃から(公判前から一転して)証拠非開示の姿勢に転じた。出田氏は、解剖医のメモ提出命令要請を理由も示さず、審議もせず却下し、その一方では、自身のこのような訴訟指揮に対し弁護側が最終弁論でどのような態度に出るか窺う為、判決言い渡しの1か月も前に弁護人に対し「弁論要旨」の中身を提出前に見せるよう打診しそうした情報を事前に把握した上で、控訴棄却の判決文を作成したのである。