朝日投書(2012年7月~2013年10月)

①題名:市井の視点で司法検証を

 私は現在、再審請求を準備している。昨年12月2日、福井女子学生殺害の再審決定を受け、読売新聞社説は「そもそも税金や公権力を用いて得た証拠は、真相究明に不可欠な『公共財』である。検察が独占・非公開とする事は許されない」との表現で、当局を批判した。球団という強固な拡材を抱える故に可能な直裁と思い、感心した。
 虐め等、虚栄心を含む私利私欲による反社会的行為は、特段の理由なく犯罪・既得権等と呼び分けられるが何れも犠牲者を特定・選別する姑息さを伴う。故に17日天声人語で言及される「生活者の肌感覚」に基づく批判こそ正義たり得る筈で、検事や判事の暴走についても、日弁連内の取組みを報じる頻度の高い朝日の肌感覚に期待するが、同日記者有論に冒頭社説のコピペと思しき記述を目にし、鼻白んだ。昨秋私は日弁連宛ての手紙で検察が「より重い処分の実現自体を成果と見なす姿勢」と自らへの戒めを明文化した事を「語るに落ちた」と記した。今年6月までそこを指摘した新聞が無かったからだが、その時差からは問題意識の鈍化が窺える。政府に当面の政争以外へ割く余力すら無い今、市井の感覚による司法制度改革検証の為、報道は最大の当事者である元被告人の意見を、有罪無罪を問わず広く募ってはどうか。裁判員の疑問が氷解する事は経験に照らし確信している。
(以上547文字。平成24年7月23日(月)付投書)

 

②題名:オルタナ・メディアで命救え

 再審請求の準備を始めて2年8ヶ月経つ。初犯で10年超の長期刑を受け且つ暴力団構成員に表面上該当しない者の収容先は山形含む5か所の「地方」に散らばる。著名人の受刑者と違い、殆どは工場に「落ちる」事に始まるしがらみや上下関係に翻弄されるが、その関係構築の「訛り」は、田舎生まれの私に強い既視感を抱かせる。
 加えて、地元メディアの貧しさが閉塞感に拍車をかける。田舎に暮らす小中学生の情操を巡る環境は、長期受刑者のそれと同じものだったのかと痛感する。
 子供の頃、会話のきっかけは圧倒的にテレビだった。それが、他人の噂しか娯楽のない田吾作への「成熟」回避の為に童心同士を舫う命綱だったが、次第にラジオや雑誌もその「必需品」に加わった。東京では流行の中の一つでしかない物事が地方に伝播する過程で常識へと熱を帯び変貌する可笑しさに気付けた理由は、誠実なメディアの批評に接する機会に恵まれた偶然でしかない。
 AKB選挙の「残酷がある、感動がある」との煽りには辟易したが、問題は彼女らが企業にとって「臭い物への蓋」に重宝される状況にこそある。昨年10月自殺した大阪の少年は遺書に「生きる選択肢がなかった。」と書いた。全国の地域メディア多様性の提供により民主主義を「復興」させる事を急務とし、最優先するべきだ。
(以上541文字 平成24年8月27日(月)付投書)

 

③題名:「有罪答弁制度」に反対

 刑事事件の被告が有罪を認めると、審理が省略される「有罪答弁制度」導入を日弁連が初めて法制審に求めたが、誤判防止の点で、度し難い愚行という他ない。
 以前、本紙でなだいなだ氏が指摘した通り、殆どの人は刑法で自らを戒めているのではない。「無罪」と「あどけなさ」が同じ英語に訳されるように、法の支配ではなく道徳的な相互監視が市井の倫理を支えてきたし、時には無知や鈍感さすら日常を連続させる美徳となり得た。
 そんな世界の住人が事件事故の加害者となったときの心理を一言で表せば、「結果に振り回される」となる。
 未決勾留段階から服役の予行演習を24時間強いる人質司法による拘禁反応、更に誇張や捏造による捜査側の「ブラフ」は、本来無縁であるべき罪障感すら誘発する。
 一般に重大犯罪は人間関係資産に乏しい人が加害者になり易い。支えとなる面会人もなく情報も遮断された者への心理的なケアを心得た弁護士は少ない。審理前に示談や謝罪を済ませようとの「実務」に追われ、密室の接見で煙に巻く事で手早い「処理」を目論む者すら居る。
 腑に落ちぬ釈明を行う被告の内、一定数は確実に未だ操り人形状態の「供述弱者」である。今回の意見書提出で日弁連は、「より重い処分の実現を成果とみなすかのような姿勢」の検察への白紙委任を行ったに等しい。
(以上537文字 平成24年9月24日(月)付投書)

 

④題名:刑務所からの半グレ対策提言

 04年、経営する裏カジノの顧客である暴力団員らと起こした強盗致傷犯Yが房長の部屋では、かつて、新人が親族宛ての書簡を定められた共用の舎房袋に収めた場合、用便中に住所を控えられ、家族の安全と引き換えに暴行や恐喝を受け続ける慣習が存在したという。
 部屋の中の事は言わない!と心得をノートに書かせたYの元には、震災時も高層ビル最上階で女を侍らせ飲んでいた「仲間」からの手紙が届く。寿司屋も持っていたYの本棚には墓石の全てという本が並び、出所後一旗上げる参考にするという。食は大きな娯楽だが、元々色々な「喰い意地」が張っていたからYは塀の中にいる。豊洲のマンションから毎日飲みに行っていた事により肥大した尻の肉を広げ後ろ向きに突進してくる「求愛行動」にも参ったが、寧ろ2年後に出所予定のYが俄に「中央線沿線グルメ」に強い興味を示している方が心配だ。
 今年6月、東京都西部における突然の大型墓地造成話が周辺住民を困惑させた。墓地ビジネス利権については9月に国税局が7億円の所得隠しを指摘した千葉の例もあり、監視強化が望まれている。用便中、机を荒らされ、一年間再審請求準備の為の手紙も一切出せなかった経験から、暴力団排除の力点とすべきはクラブなどではなく墓場だと思う。
(以上498文字 平成24年10月30日(火)付投書)

 

⑤題名:団藤さんの死「惜しむ」

 裁判員制度は今年5月で導入後3年が経った。本来なら本紙でも縷縷問題視した点が見直されるべきだっただけに、刑事訴訟法の生みの親で刑事法学の大家と呼ばれ続けた団藤重光氏のこの時機の逝去が実に惜しまれる。
 日本の死刑廃止運動の中心的存在とされたが冤罪死刑囚を生んだ職業裁判官寡占制を支持し、終戦時には陪審員制、近年は裁判員制導入に反対した。再審の門戸を開いた氏の白鳥決定も内実は故・竹沢哲夫弁護士の尽力の賜物だった。本紙で5度も悼まれながら言動の乖離と謎が増すばかりに思える氏の功績を知る唯一の端緒は、陪審制導入に反対しGHQと渡り合ったとの証言である。
 当時の様子について元司法記者の魚住昭氏は、ファッショと批判された検察民主化の為に検事公選制を求めたGHQに対し司法省が激しく巻き返し検察審査会新設と引き換えにこれを消滅させたと本紙10年9月11日付で解説している。団藤氏の父が検事だった頃の司法省は皇室の危機を未然に防いだ功績で地位を上げ、団藤氏自身は宮内庁参与として晩年を迎える。相当数の判事・検事・日弁連副会長経験者が何れも70か71歳で叙勲を受ける謎や死刑廃止論者の弁護人が明白な誤判事例を問題視しない謎について、後者の当事者として回答を得たかった。
(以上547文字 平成24年11月26日(月)付投書→27日(火)発信の筈が、当局教育課より発信先を親族に登録する手続を求められ、翌28日(水)に発信)

 

⑥題名:「捨て駒」は決して反省しない

 「『みせしめ判決では』に反論」(25日)は、最近の司法に関する報道に対する示唆に富んだ意見だと思う。
 「相場」に基づく判決より重すぎるという意見と、そもそも相場自体軽すぎるとする今回の投書の何れも私には、感情にのみ依拠している点で素朴すぎると感じた。前者には、裁判員制導入も含む司法制度改革の審査会が始まった97年からそれが01年の小泉政権で「国家戦略」と位置づけられるまでの間に量刑相場が飛躍的に重くなった統計を、後者には、検挙者数に占める再犯者の割合が97年から増加の一途を辿り、今年は最悪の43.8%だったという法務省犯罪白書の発表を各々踏まえてから議論に参加すべきだと言いたい。また後者はこれを投稿する直前に、馬乗りで2歳児を窒息死させた42歳の母親に対する求刑が懲役8年、判決が同3年となった本紙報道を知っていた筈。何故そこには触れないのか。
 子を持つ親の頑張りを貴いものと位置づける為の虐待バッシングなら単に自らの価値の水増しであり、被害者の視点を欠く点では前者の投書と何ら差はない。本質的に、子供にとっての親とは存在ではなく効果である。社会と公共について薫染を施すという真の意味での「保護者」は塀の中にも外にもいない。そのような社会の代弁者たる法曹の判決など、全て冤罪と呼ぶに相応しい。
(以上541文字 平成24年12月25日(火)付投書)

 

⑦題名:映画が射抜いていた現在

 1月27日付「スポーツと体罰」での世取山洋介・新潟大准教授の指摘は、理不尽な体罰を是とするスポーツ文化の出自について、正鵠を得ると呼ぶべきものだった。
 80年代半ばの商業校が、きつい仕事でも不平なく働く従順さを就職の売り物にしたとの世取山氏の指摘は、しかし私の中では、更に26年遡った高度成長期の東京をリアルタイムで描いた映画の中の或るシーンに直結する。
 複雑な家庭事情かつ狡知に走る少年の職探しに奔走する女性教師に対し大手工場の男性社員が放つ「いやあ、地元の子は扱いづらいからウチでは集団就職の子しか採らないことにしてるんですよ」との台詞。今月15日に逝去した大島渚監督のデビュー作「愛と希望の街」の中で最も印象に残る一幕だ。
 世取山氏が例示した事件が起きた85年は丁度私が東京都下の高校に転校した年でもある。バブルによる再開発以前から「地元の子」のアルバイト、就職先について、それらが社会参加への意欲を奪う場から父権的な調教の場へと変質する様を体験しながらも観察し続けて来た。
 仏ル・モンド紙などで「衝撃」と形容される大島監督がその後多くの作品で一般人をキャストに起用したのは機材無き時代の可視化の試みだ。職場が内線に匹敵する死者を生む現場を私も記録し司法は隠蔽し続けるが、可視化は時間の問題だ。
(以上540文字 平成25年1月29日(火)付投書 本文中「26年」を「21年」と誤記したまま投書)

 

⑧題名:PC遠隔操作と司法 まず容疑者保釈の試みを

 実際に起きていながら未だ立件に至っていない知られざる犯罪について実名を挙げる等、極めて具体的に例示した上で是認してみせる行為は、極道が一般人を脅す仄めかしという常套手段である。11年5月にはブラザーコーンこと近藤某が実在する暴力団の名を挙げ、「お前やられてもしょうがないだろう。取りにいかれるぞ。取りにいかれるって命だぞ。」等と受け身の言語を駆使し知人を脅したとして逮捕され20日間の勾留後罰金20万円の略式命令に応じ即時釈放されたが、これも仄めかしの一つといえる。
 長期受刑者を収容する施設では年々低下する仮釈放率(「ロング」に対する現在の当所相場は最も模範的と評価された場合でも6ヶ月といわれる)が多くの利欲犯を居直りと共感に基づきネットワーク化させる為、同様の手法を操るに長けた者ほど当局の好評価を意味する地位に就く傾向が強く不正配食や虚偽考課等無言の仄めかしを含む狡知により刑期を通じて虚栄に溺れた者やその陰でトラウマに苛まれた者の何れも虞犯の内圧を高めている。昨年の再犯者数が全検挙者数の43.8%に上がったとする法務省犯罪白書統計の背後にはこうした事情もある。
 これら普段メディアに現れない人間社会の暗部に直面した立場から見れば、仮に今回PC遠隔操作で逮捕された片山某が真犯人だとしても、その行為は悪意と呼ぶには余りに素朴という印象だ。そもそもオンラインに限定した犯罪予告だけでも過去5年間で780件に上がる程ありふれており、まして本人は一貫して否認している。にも拘わらず既に各メディアにおいては未決拘留者の「いじめられ人生」等プライバシーを身ぐるみ剥ぐが如き実名報道や見出しが躍る。取り調べ開始前から逮捕前日の行動を追尾・盗撮し、発表する各社の悪意ある過熱報道から寧ろ少なからぬ読者や視聴者は冤罪発生に必要な条件が全て出揃った事を既に察知しているはずだ。
 片山某には現在、足利事件再審で雪冤を果たした佐藤博史弁護士が付いている。だが悪意ある断定報道が席巻する現状に於いて尚、例えば最近の体罰問題では「たられば」の文脈で批判声明を発した日本弁護士連合会(山岸憲司会長)が傍観者に徹している事態はどう見ても異様だ。日弁連にとって今ほど自らが昨年初頭に始めた刑事被告人保釈への新たな取り組みを具体化する好機はない。
 昨年の本紙1月4日付朝刊によると日弁連は刑事法規定の「保証書で保証金に代えられる」とある部分を利用し、弁護人や親族からの申し込みがあれば日本弁護士協同組合連合会が審査の上、保証書を発行し保釈に協力するという仕組みを考えたという。この場合の親族が何親等までを指すか記事中明らかではないが、司法制度の構造犯罪といえる程身近になった日本の冤罪問題に際しては全国民が当事者であり、これに対する救済を支援する人は皆、親族等に該当し得る。
 自ら名乗り出た事により同時に4人の無実を証明した積極姿勢から窺える被告の精神的資質や既にPC等の証拠物が全て押収済みである捜査状況、そして前述の先行的社会制裁に鑑みると今マットも警戒されるべきは被告の逃亡や証拠隠滅ではなく捜査側によるPCデータ改ざんや不可視の取り調べに於ける威迫や誘導を伴った供述調書捏造である。また大概の弁護士が民事事件を仕事の軸に置く現状では今回神奈川県警に誤認逮捕された大学生の様に親族が警察の誇張や脚色を鵜呑みにする可能性が高く、加えて被告が賃貸アパートに独居する等自身の資財を勾留により恒常的に維持できなくなった場合、私の様に押収されなかった物があってもそれらが廃棄され訴訟で無罪を主張しようにも手遅れになる事態をも招きかねない。どんなに有能な弁護士も被告に成り代わる事は出来ず、これらの危険への適宜な対応は被告本人の行動の自由なしにはなし得ない。片山某は直ちに保釈されるべきだ。
 但し、保釈に伴う危険もある。例えば山形県では11年末、父親に対する傷害罪で起訴・勾留されていた男性が結審後一旦釈放されたものの父親死亡による訴因変更直後に自殺した。仮に片山某が保釈され被告として防御の機会を保障されたとしても早晩ピークに達する「いじめられ」過熱報道が彼に消耗を強いる事態は避けられない。そこで私は今回のPC遠隔操作事件について一連の騒動が示した教訓を顧みる事を強く促したい。
 今回の事件はまず違法な取り調べが相変わらず全国規模で横行する現場の日常を炙り出した。更に神奈川県警に於いては専門知識を有する筈の解析担当者が犯行に用いられたCSRFという手法を知らず、同僚や警察庁への問い合わせも忌避するという縦割り捜査の弊害を晒す事となり警視庁等の合同捜査本部も民間業者への解析依頼をせずIT捜査の知見を得る機会を逸する一方で捜査員5人を米国に派遣する怠惰と浪費の体質を晒した。警察庁が新設した不正プログラム解析センターへの専門捜査員20名の招集も神奈川県警貝瀬記者の個人的倫理問題を棚上げした焼け太りで、威力業務妨害程度の犯罪防止策にしては大仰に過ぎる。その一方で現場の捜査員は誤認逮捕した少年に対し「否認すると『院』に入る事になる」等隠語や受け身話法を駆使し続けた。これら一連の経緯は捜査が纏う悪意について多くの具体例を呈示してくれた。
 また真犯人がメールで名乗り出る約1ヶ月前に日弁連は被告が有罪を認めた場合、審理を省略する有罪答弁制度導入を求める意見書を法制審議会に提出していた。もし真犯人が名乗らないままこの制度が導入されていれば、裁判員裁判の対象外である威力業務妨害罪での法廷で被告らの無実の訴えは職業裁判官の先例踏襲主義の慣習に則り処理され法曹三者の交渉協議で量刑決定にのみ力が注がれ4人の冤罪被害者が法曹界の描く「早期の社会復帰」の筋書きに沿って不本意な人生の軌道修正を余儀なくされた筈である。日弁連にこの制度導入提案を自省・撤回する動きは無く当時この提案を無批判に報じた各紙も沈黙している。机上の議論も現場からの反証の尊重無くしては理解が深まらない。日弁連や各紙は今回の騒動を自省の機会と捉え、自らの領域でも被告保護施策が不十分な実態を再度検証すべきだ。
 先述日弁連の保釈への取り組みはまだ宇都宮健児氏が同会会長だった頃のものである。宇都宮氏から山岸現会長への移行経緯は不可解なものだった。これまで殆ど東京と大阪の各弁護士会長の持ち回りだったポストへの異例の続投意思を宇都宮氏が示した途端、勢い3人の対抗馬が現れ、法曹人口増減が争点と報じられたものの再選挙に残った両氏共に抑制を指向していたからである。宇都宮氏の特色は「弱者に優しい司法」指向で公務と並行して野宿者の生活保護費受給支援訴訟に携わり、また氏が補佐役である事務総長に充てた海渡雄一弁護士も11年6月1日会見で足利事件の元被告を17年間冤罪に苛む端緒となった一審弁護について「弁護人として最善の努力をする義務を果たしていない」「全く理解し難いもので最大の問題だ」と厳しく批判する等強きを挫く姿勢を見せた。国の管理監督から自由といえる日弁連が身内を批判した会見を私は他に知らない。
 復興支援強化を謳い、仙台弁護士会の荒中氏を事務総長に充てた山岸氏だが決選投票で地方票の殆どを宇都宮氏に奪われた。氏の公約実現に関しては、未だ原発ADRによる救済が遅々として進まぬ現状を昨夏当時福島県双葉町長の井戸川克隆氏がネット上で訴えたが、その後議会の不信任決議により辞職に追い込まれた。ADRは政府による損害賠償支援機構だが、例えば山形への避難者についての記事によると被災者と同機構間の橋渡しとなる実務を弁護士団体が担う仕組みとなっており、この団体への登録からADRへの申請まで1年以上かかっている。
井戸川氏のADRについての発言は大手紙では取り上げられていない。双葉町長のポストには現在「町外の人」までもが立候補しているそうだが、80年代に災害便乗の権益拡大を「パラシュート弁護士」と揶揄された米国の法律家達と同じ轍を踏む者が現れているのではないか。一方宇都宮氏も刑事事件については沈黙に転じた。昨年3月、本紙が検察改革について全国52弁護士会に行ったアンケートでは各会に質問用紙をFAXかメールか郵便で送付する手法が採られ、各会間の情報インフラの脆弱さを窺わせた。更にその内13弁護士会が無回答で、不適切な捜査や起訴防止への取り組みが17弁護士会に止まるとの結果からは全体として刑事事件への致命的無関心が浮き彫りとなった。国が司法の現場を管理監督できない場合はメディアを通じ国民がその役割を担うべきだが、その試みについて質と量共に格好の材料を片山某は提供する筈である。
(以上3639文字 平成25年2月26日(火)付で「私の視点」係に投書 便箋7枚(1枚につき25×21=525文字)に収める為、句読点を極力省略)
補注:2月24日(日)に書いたものを翌25日(月)に工場に提出。同工場の発信受付日が毎週火曜日である為、26日付で署名したもの。同月28日(木)には佐藤博史弁護士がTBSラジオ「Dig」(夜10時~)に出演し事件について主張。朝日新聞は同ラジオ局の同番組放送時間枠で10年まで放送されていた「バトルトークラジオ・アクセス」のスポンサーを務めていた時期がある。尚、字数制限により改行部分を「//」と表示した。

⑨題名:「塀の中紙面検討委員会」(仮)
 弁護人に頼らず再審請求用の情報収集をするには本紙だけでなく刑務所内にある読売新聞のチェックが欠かせない。本紙に載らない個別の裁判記事が必ずあるのだ。一方本紙では論説から体系理解の機会を得る事が多いので年度変更に伴う執筆陣の移動情報には敏感にもなる。今月で任期を終えた紙面審議委員から「当たり障りがない」と指摘された匿名の社説にも影響は大きい筈だ。
 本年度は裁判員制見直しや刑法改正等司法が大きく動く事は予め判っていた。しかし本紙ではこの時機、自社がスクープした証拠改ざんを受け「特捜部は要らない」と署名論説で旗色を明示した記者が日本を離れ、一方米NYから被告人であった大王製紙前会長について「借金と嘘が症状の深刻な依存症」だから服役は無益とする論説で「曇りなき人生」を歩む同志にエールを送り社会部長に転じてからの沈黙を以て前会長に対する量刑相場の5%という異形の判決を導いた記者が東京発の情報発信を支配した。
 署名記事で判事も検事も来歴や実績、思想傾向まで丸裸にする、という米国の常識を元NY支局長は東京に持ち込んだか。本紙では最近、裁判員経験者の一般人の声すら聞かれなくなった。尾崎豊を匿名で語る熱いが不気味な風土を育んだ一因として社会部の反省材料とし人事面から根本的な紙面改善を計って頂きたい。
(以上547文字。平成25年3月26日(火)付投書。本文中「紙面審議委員」を「紙面検討委員」に、「無益」を「無役」に、「曇りなき」を「雲りなき」に、それぞれ誤記したまま投書。改行部分を「//」にて表示。)

⑩題名:いじめをごらんのみなさんへ
 豪マスターズで初優勝したアダム・スコット選手について17日付朝刊は何故経済面で報じたのか。誰もが訝しんだ筈だ。ユニクロとのスポンサー契約直後故の強運との事らしいが寧ろ私には同社との契約云々と逆の強運と映る。
 1年前ノーベル平和賞を受賞したバングラデシュのグラミン銀行創設者ムハマド・ユヌス氏は受賞の3年後に同行総裁職を解任された。350万人の借り手が撤回を求め署名し欧米諸国も政府に働きかけたがバングラ最高裁は僅か1ヵ月後に解任支持判決を下した。グラミンはその8ヵ月前にユニクロと合弁契約を交わしている。
 同国では昨年11月縫製工場での火災で120人超の従業員が死亡した。1階の火災から逃れようと上階から飛び降りた為だが日本でなら設備管理責任が厳しく問われる事件だ。ユヌス氏が去ったグラミンはグループ化し借り手らはBEPとして地球規模の格差の中で再定義された。
 新聞の社会部には「事件待ち」という言葉があるというが日本の4割程の面積の国土に1億4千万超の人々が犇めく同国に外資が参入する際強硬な弱者切り捨ては常識として横行するのだろう。日本の嘗ての貧困や現在の冤罪のように問題が可視化されるまでには私の場合と同様一定の流血が求められている。スコット選手の優勝は司法も飲み込む巨大な闇の些細な例外に過ぎない。
(以上546文字。平成25年4月23日(火)付投書。改行部を「//」で表示。)

 

⑪題名:橋下氏発言問題―「ブラック司法」を射程に置いた検証を

 橋下徹氏の「慰安婦制度が必要だったのは誰だって分かる」発言は、氏が嘗てその死刑を実質的に是認した山口県光市の母子殺害事件の元少年死刑囚が未決囚時に知人宛の手紙に記した「男は女を、女は男を求める。これ自然の摂理ね」との文言によく似ている。橋下氏は元少年の弁護団に対する懲戒請求をテレピ番組で呼びかけ自らが懲戒処分を受けるという結果を招いたが、この件で名誉を傷つけられたとして損害賠償請求を起こし一審で棄却された19人の弁護士が今月、判決を不服として東京高裁控訴する事態となっている。
 知人とのやり取りの中で偶然的に知った事だが、この3年余私の再審弁護人に就いている人物も元少年の弁護団の一員である。二審からの付き合いになるが、こと再審に際しては何の進展ももたらしていない。
 私は10年以上前、約3年間都内の本紙販売店で専業(正社員)として働いたが、当時は店主が「俺(所長)が通りかかっても仕事をする奴は往復ビンタされて当然。従業員は直立不動で敬礼。そういう時代なんだよ」と宣う程「ブラック」だった為、メニエール病と思しき激しいめまいに1ケ月近く苦しみ、その間に退職扱いとされた。その後私の告発により店主らの不祥事が露見し解廃(店の取り潰し)となったが、その一連の騒動の中で私が利用した市の無料法律相談で応対した老弁護士はノロノロと話をはぐらかし腕時計を見て30分経つのを待つのみ。次に訪れた霞ヶ関の弁護士会館でのそれに至っては「そんな軍隊みたいな職場さっさと辞めればいいじゃな~い。日本が駄目ならアメリカにでも行けばいいじゃな~い」と詰る等、輪をかけて「黒い」ものだった。
 現在私に付いている弁護士の特徴は「すみません」「残念です」「そういう時代なんですよ」という3フレーズの使い回しでの間隔に於いて無為を貫く。依頼を遂行せず「すみません」。その結果生じた不利益について「残念です」。被告がその間に受けるひとつひとつの理不尽な事柄に対し「そういう時代なんですよ」。思い返せば一審の国選弁護人にもその傾向はあったが彼も少年への量刑引き上げに反対する署名運動に関わる「人権派」である。
 議論に正確さや緻密さを嫌う人が自説の正当化を試みても馬脚を現すのは当然で、大阪地検特捜部の証拠改ざんに始まる検察不祥事の数々も「体育会系」の人材が好んで登用された伝統を持つ組織に於いては時間の問題だったのかもしれない。しかし検事は、露骨な失態を晒す程無能か否かという個人差こそあれ「より重い罪を実現する事自体を目的と見なしていた組織に与えられた職務には忠実だった、という一点に於いては辛うじて社会の評価を得ておりそれが軽微な罪という落とし所を導いていると見るべきである。
 その点、案件毎に利益の性質が変わる弁護士は、特に閉ざされた接見室で相対せざるを得ない刑事被告人の立場から見た場合、果たして相手が有能か無能か、更には親切なのか悪意があるのかさえ専門用語が頻出する一方的な説明からは予見出来ない。私の場合、控訴した直後の接見で「控訴で刑が半分になるとか3分の2になるとかとんでもない。まあ6ヶ月から1年軽くなればいい方かな」と言い放たれた。その後最終弁論要旨で、大筋は私が書いたとは言え、検察の証拠隠蔽やデータ改ざんを指摘する事になるにも拘わらず、である。
 橋下氏が大阪市長に就任した当時、過去に氏が上梓した交渉術の指南書内容が物議を醸した。相手に必ず「イエス」と言わせる為のノウハウが「先ず相手が絶対に呑めない程高いレベルの要求を設定し、次第に譲歩する形で当初の落とし所に誘導する」等その恫喝や詭弁の推奨も含め、反社会的勢力のそれと酷似していたからである。本誌上での上野千鶴子氏(社会学者)曰く「専門や職業は性格をつくる」とすれば、橋下氏の性格の基盤は間違いなく弁護士という職業にある。そもそも10代の社交時間を殆ど法曹資格取得迄の受験戦争に奪われ、司法修習段階で限られた条件で如何に有罪に導くかという起案の訓練を施され、適性審査も通過しなければなれない法曹三者は皆同等の世間知らずだ。その中でも判事や検事に登用される程の優秀さや特性も無い殆どの弁護士が自らのカラーを打ち出す欲求から、実務上の正確さは置き去りのまま、死刑廃止のような「正しさ」の主張へと逃げる例があると感じる。その為日本での死刑廃止運動は軸を欠き訴求力に乏しく、更に八百長でしかない「ヤメ検」の参入が弁護士自らの思想基盤すら見失う事態を招く。(受験)戦争から死刑廃止への飛躍を強行するには、「反対の為の反対」の空虚を埋め合わせる派手な話題が求められる。
 今年2月、週刊誌で78人の確定死刑囚の主に死刑の存廃に関する意見を記した手紙が公開されたが、自らへの極刑を粛々と受け入れていたのは光市事件の元少年だけだったように見えた。無期懲役に比べて実質的な刑の執行時間が極端に短く、執行までは人間としての様々な自由が担保される実情を冷静に考慮した結果かもしれないが、親族以外で最も対話する機会の多かった人権派の弁護士への失意が遙かに勝っていると推測する。教育県と呼ばれ、極めて刺激に乏しい情報で伸び盛りの感受性を囲い込み、スポーツ教育が許可する領域でのみ成長を促し、その課程で理不尽な規律を刷り込む田舎の教育の実情は懲役刑とも、また恐らくは軍隊やオウムと大差がない。平均年収1400万円超の弁護士らにとってこうした社会背景への無関心は生存本能と同義である。橋下氏は光市事件弁護団への意思表示として懲戒請求という選択肢がある事を公共の場で示した唯一の法律家であり、大阪市長就任後は「特区構想」の説明過程で債務処理等の実務寡占が弁護士の既得権と化していると明かした。法律を盾にとらないというだけで有難がられる法律家の人気は民意へのリテラシー不在の人権派に支えられる皮肉と共に今後も絶える事は無いだろう。15年にわたり3万人超えの自殺者を輩した経験から多くの人は日本が格差を装った階級社会だと確認した。
 今回の橋本発言への反発の中にはただ挙げ足をとってヒューマニズムを顕示したいだけのものも多い。慰安婦制度が必要だと「誰だって」わかる訳ではないが、同制度を自明の事として疑わない階層が存在する現実を見るべきだ。多くの受刑者にとって女性はシャブと混ぜて快楽を得る道具か、羽振りの良さを誇示する単位でしかない。朝日新聞を読む大人や子供は理解に苦しむ価値観だが、売ったり配ったりする側となると違ってくる。中国人女性との偽装結婚斡旋を副業とする拡張員は言うに及ばず、地域で女児への性犯罪が起きると先ず最寄の販売店員が捜査対象となる習慣は小林薫元死刑囚の事件以前からあった。こうした階層では「岡村さんがやめたら朝日を取りません」と顧客女性が契約書に自ら記すような事態は業界の慣習に照らし疎まれるのだ。
 出自を明かした週刊誌報道からも橋下氏は下層に固定される人々についてメディアや法曹界よりは踏み込んだ理解が示せる素地が窺える。声なき声を代弁する時は「誰だって」といった暴言で勢いを向けた方がリアルに響くといったあざとさも素でやっているのか区別はつかない。しかしそこにこそ共感する層は無くなる事なく嘗て光市事件弁護団の拙さへの嫌悪から元少年の死刑を是認した世論を同等の威力を持つとすら思われる。それが奇しくも僅か18年生きただけの少年に実質的な自殺を決意させる動機と同質の厭世観に裏打ちされているからだ。法曹界やメディアに通底する民意へのリテラシー欠如とその上でのみ成り立つ空疎な対立で時間を稼ぎ延命を図る既得権への拒絶反応に抗う事は難しい。
 具体的な死俐存廃問題や慰安婦問題の見解は何もまとまらないまま、一方で国との温度差だけで一体化しているような錯覚に陥る現状では、今月8日付オピニオン面に寄稿した内田樹氏(神戸女学院大学名誉教授)の「『国民国家としての日本』が解体過程に入った」との指摘と同じだと思う。この「国民国家の末期」を「官僚もメディアもぼんやり、なぜかうれしげに見ている」と内田氏は表現するが、私はその「うれしげ」の理由は、メディア企業と司法が自らの二枚舌の余波の大きさを高みから眺める優越感と、今後現れるであろう橋下以上に優秀なデマゴーグヘの期待感の2つだと感じた。私個人を取り巻く状況は「ブラック司法亅と呼ぶべきものだが、同様の状況は司法の枠を超えてあらゆる領域に及んでいる。橋下氏は今回もあざとい程に「白」を強調した服装で会見に臨んでいるが、あざとさ以上の「えげつなさ」が背景を覆っている現状に留意したい。
(以上3510文字。平成25年5月28日(火)付投書。「私の視点」宛」)

⑫題名:公務員不祥事 「顔」をあかした上で「何故」の闘いを
 再審請求という自らの最優先課題に関連する事件について昨年7月から毎月末に本紙「声」欄及び「私の視点」に行ってきた投書も、一年目を迎えようとする先月末に途切れてしまった。度重なる弁護人のサボタージュや刑務所内でのトラブルにより疲弊し、更に月末に隙を突かれ(摘発時は不正喫食と言われていたのに)「不正加工・不正所持」罪による懲罰で発信の機会まで奪われたのは無念という他ない。
 しかし、その経緯においても本稿への示唆に富むエピソードに恵まれたのは幸いである。漫画を規制する東京都青少年健全育成条例改正案について2010年7月17日付本紙で社会学者の宮台真司氏が「行政は『絶対にしてはいけないこと』だけを規制し、個人の生き方や価値観に介入する事は許されない。それが『市民社会の本義』だ」とコメントしていたが改正案に反対する声の大きさはそのままコメントの説得力の強さを物語る。「子供でも判る事」「45歳になってもはずかしくねえのか」等の、恥に関する個人の価値観を「年齢」で囲い込めると考える牧歌的な教育者の存在に、地方での子供時代を思い既視感に陥ったが、重要なのはそうした官公庁の独特な価値観は必ず職務遂行のどさくさにねじ込まれるという事だ。
 遡って先月15日付朝刊記事の、内容のみならず報じられた方にも目を疑った。静岡刑務所で今年2月7日午後2時頃、41歳の主任看守が60代の男性受刑者の左足を2回蹴ったとされる事件があり同月26日のX線撮影の結果、太腿の付け根部分が骨折していたが、同所は暴行との因果関係は不明としながらも主任看守を同14日に特別公務員暴行陵辱の疑いで書類送検の上停職3ヶ月の懲戒処分に、同主任から暴行の事実を聞きながら上司に報告しなかった45歳の副看守長を戒告、真先薫所長(59)ら6人を監督責任等で厳重注意+訓告とした、というのが本紙報道による顛末である。
 記事内容について受刑者の立場から俄には信じ難い点が2つある。ひとつ目は、暴行があったとされる日からX線撮影までの時差について。何故すぐ診察しなかったかとの憤りではない。足を蹴られる暴行の態様や午後2時という犯行時刻から受刑者の被害は工場に出役し刑務作業に従事する最中の出来事だったものと思われる。だとすればこの受刑者は単独若しくは雑居の居室と工場の間を暴行から診察迄の19日間毎日往復していた訳で、受験者の居室外での歩き方は所謂ミリタリーツーステップと呼ばれる軍隊式行進か、それより若干緩い「みちあし」と呼ばれる2通りしかなく、前者の厳しさは言わずもがな(手は前に60度後ろに30度の角度で上げなければならない)、後者ですら指先と肘は真っすぐ伸ばしたままサンダルの音をたてぬよう配慮しながら前の者と同じ歩調を維持しなければならず、到底足を骨折した60代男性に19日間も可能だったとは思えないのである。仮に閉居罰等で居室内に19日間居たとしても入浴等で必ず前述の歩行場面は訪れるし規定通りの歩行が不可能な場合は個別指導による歩行訓練の中で足の負傷は露見した筈で、刑務職員1人が担当する受刑者数が5人と全国で2番目に多い山形でもこの点は厳しく監視しているから静岡で職員の目が行き届かなかった事も有り得ない。
 ふたつ目は、この記事で当事者や関係者を処分したと報じられた主体は「静岡刑務所」であるのに、そのトップである筈の真先所長もその処分対象としてその目的語に名を連ねている事で、不祥事責任の処遇を自己決定したのだろうという疑問である。誰でも気付く筈の刑務所発表の矛盾についての解説は記事中にない。社会部でのこうした官公庁発表報道の課程ではこの程度の事が些末事として放置される程に矛盾した語法や話法が常態化しているという事なのか。全く不可解である。
 昨年2月25日、山形刑務所看守部長(当時)の栃久保裕(ゆたか)容疑者(54)が同日午後6時半から8時半迄の間に仙台発山形行きの高速バス車内で隣に座った17歳の少女の体を触り、少女からの携帯メールを受けた父親に停留所で取り押さえられ逮捕される事件があった。新聞によって逮捕した県警や違反したとされる県迷惑防止条例の所在が宮城と報じられたり山形だったり判然としなかったが、逮捕当時これらの主体を山形と報じた本紙山形版が後にこれを宮城と改めた事から、当初より宮城県迷惑防止条例に基づく逮捕と報じていた読売新聞山形版が正確だとしても栃久保容疑者を不起訴とした主体を「山形地検」と報じており不起訴の理由も「示談が成立しており被害者が謝罪を受け入れている」というもので示談即ち罪を認めた容疑者が起訴されず検察審査会にも告訴されない等謎は尽きない。しかも最も注視すべきは容疑者の逮捕から「社会的制裁」迄の時差である。
 栃久保元容疑者への停職6ヶ月の処分は逮捕から9ヶ月後の11月16日に山形刑務所から発表された、しかしこの時元容疑者は同刑務所とは異なる刑事施設に異動済みで処分も異動先施設で下されたといい元容疑者の異動先について山形刑務所は「プライバシーの問題もあり明かせない」としている。本紙山形版は山形刑務所の宮崎哲夫所長(当時。今年3月28日付定年退官)の謝罪コメントと処分内容は報じたが、元容疑者を匿名で扱い、処分が異動先でのものだった事には触れておらず、本紙のみ購読する山形県民にとっては刑務所側の対応を良くも悪くも誤解に導く杜撰な記寧と言わざるを得ない。酒気帯び運転での摘発で市職員が懲戒免職になる山形県においては痴漢行為で逮捕された職員へのこれらの配慮は破格の厚遇と非難されるべきだが、本来この件で迅速な調査と処分をする責任を負っていたのは栃久保元看守部長逮捕時の山形刑務所長で現在静岡刑務所長として不祥事責任を自己決定した真先薫その人だ。真先氏は「職員が逮捕された事は誠に遺憾。事実関係を確認した上適切に対処する」と明言している。元看守部長を東北矯正管区の他所へ秘密裡に異動させ事後処理も後任に押し付け、自身の新たな不祥事責任の取り方も決定する一連の振る舞いは「不適切さにおいて一貫している」と報じられるべきものである。
 民間企業の不祥事では概ね不況や競争激化が口実となるので社外取締役や外部監査役など第三者による監視の義務付け以外の再発防止策は議論できず一定の透明化は組織の活性化を促す効果も期待できる為そうした施策は有効といえる。だが下請けとの緊張関係や内部告発が頻出する民間と異なり、官公庁は面子を最重視し自ら作成した省令の帳尻を合わせる為に現場に「腹芸」を暗に要求する官僚が完全に支配する一枚岩の特殊な組織であり民間と同様の対策では不祥事は防げない。それは巨大組織を「権力」として監視してきたメディアの考え方の点でも同じ筈である。民間人は普段の生活の中で「官」の存在を意識する事は殆ど無く、官という言葉が主語として飛び交うのは受刑者の世界だけである。「官」を覗きたければ、メディアは一度、受刑者の目を持たなければならないのかもしれない。
 先月16日付社説は、相次ぐ警察不祥事に対し「なぜ『順法』を通せない」と問いを読者に丸投げしているようにも読めてしまう。官公庁不祥事に第三者機関という落とし所は通用しない。企業はそれ自休が利益を追求する主体なので不祥事は普段の愚直な努力の中で起こる「不作為の罪」で片付けられがちだが、官公庁の不祥事は既に与えられた権益維持の過程で、まるで高速バス内で行なわれる痴漢行為の如くどさくさに紛れて生ずる性質のものである。公権力を人々が本当に監恨し、その暴走を阻止したいなら、メディアが民と官の組織の違いを踏まえた上でその「顔」でもあるトップについて特権的に得た一次情報を精査し常時報道する戦略を徹底するべきだ。
 地方の教育現場で嘗てよく使われた「憎くてやってるんじゃないぞ」との言い回しも今では額面通りには受け取られず、それだけ病んでいる事の証左の価値しかない。倫理に基づき公務員の肩書きを攻撃しても病気は治らない。快方に向かったかどうか全ての医者が最後は患者の表情を見て確認する様に、メディアも組織の患部のみならず「顏」であるトップの“来し方、行く末″にも目を光らせるべきだ。尚、冒頭の「懲罰」等も含め、私も自身の「顔」を晒し全てを明らかにするつもりだ。ニュースは作るものであり、腹の括り方次第で訴求力も異なってくる筈だ。
(以上全3248文字。平成25年7月22日記。翌日の発信受付日から懲罰の為、8月7日(水)に発信。よって、文中「今月」は7月「先月」は6月を指す。「私の視点」宛。)

 

⑬題名:被害者情報漏洩

 「被告人」を「東電」呼ばわりするな
 私が現在服役する端緒となった事件は、職場で1人が「刺され」て死亡したとして「社会に与えた影響は大きい」と検察も激しく論難したものだったにも拘わらず、新聞各社はほぼベタ記事の囲み記事で済ませ、私が「仕事の事で被害者から注意されていた」「殺害の為にナイフを持っていた」等、公判ですら立証されていない論告の記載に基づく誤報の訂正も続報も殆ど無かった。
 一審弁護人が事件のあった07年6月25日から数日間、インターネット上のBBSを幾つか保存しており、4年以上経って初めてこれを見せられたが、前述誤報に基づく「この事件、身に詰まされます」「他のベース(作業所)でも起きるな」といった勘違いの同情書き込みに混じり「この事件は揉み消される」といった指摘も目立ち、それは現実のものとなった。
 続報も含めれば私の事件の軽く20倍以上の情報が、横浜地裁での強制わいせつ被害者情報漏洩について今年6月14日からの報道や検証で費やされている。7月2日には最高裁の対応も報じられ同18日には「記者有論」欄で、今月4日には社説もこれを論じている。性犯罪やストーカー被害など、抵抗出来ない弱い女性の被害イメージが浸透している事例について「被害者の権利」を主張する一般論は多くの読者や視聴者の共感を得易く、世論の形成もお手軽だ。8月4日の社説では「強姦された女性が警察に届け出たことを逆恨みした男が服役後に女性の居場所をつかみ殺害」したとされる97年の事件まで引用された。
 しかし、この殺人事件は情報漏洩について考える材料としては、他の因子が多過ぎ不適切だと感じる。詰まる所この事例は矯正行政の失敗である。この男が女性の居場所を知らなくても、他の女性が代わりに強姦や殺人の被害者になっただけだろう。またこの女性の被害届内容が公判時に検察側によって「盛られ」ていた可能性も、同様の事例の経験者として看過出来ない。情報漏洩はあくまで契機に過ぎず、その動機付けまでの説明材料にはなり得ていない。
 7月18日付「記者有論」には被害者学が専門の諸沢英道・常盤大大学院教授の「手厳しい」一言コメントが添えられているが、私は11年2月5日付の読売新聞紙上で諸沢氏の「世界被害者学会理事」の肩書きと「厳罰化ではなく刑の適正化と言うべきだ」「起訴された時点から謝罪すべき」との発言に初めて接したが、その時に振り切れ過ぎた人間の狂気を感じた事を思い出した。今回の本紙引用は極めて短く、上手に「解毒」されているようだが、「教授」の見解としては極めて偏ったものである事の補足は必要ではないか。
 性犯罪が、実は冤罪の多い分野である事について、一度でも服役した人なら良く解る筈だ。「事件」当時は合意を装うなどしておき後で申告すれば警察は被疑者の最も個人的な領域である性生活について調べ上げ、それに基づいた「事実」を検察官は敢えて女性の事務官を横に配した上で赤裸々に確認させる。「頭が真っ白なまま気が付いたらここ(刑務所)ですよ」という或いは受刑者の話などを聞くと、冤罪云々はさておき「被害者と加害者」は先ず観念的構造として捉えられるべきと気付かされ、人を陥れるのにこれ程好都合なものもないと感じる。
 横浜の情報漏洩の約20分の1の僅かな情報量だった私の事件記事でも、私や被害者の住所・事件現場の所在は明記されており、相対的にはそれだけ重要視されがちとも言えるが、殆どの読者は地図で確認しないとその意味する所は理解出来ないだろう。私の家は現場である会社から自転車で15分。被害者は電車を乗り継ぎ片道1時間近くかけて通勤していた。現場から遠く離れた東久留米市で母と同居していた被害者は母に「小遣い頂戴」と言う事もあり、近場の職場を何らかの理由で辞める事情を残しており、事件現場の会社では15年前から、大声を出して怒り「あれじゃヤバイ」と他の従業員から進言を受けた社員に諫められても遂にこの「癖」が治ることは無かった事、口の利き力などを理由に出入り業者とつかみ合いの喧嘩となった事、且し制服を着た社員の前では大人しかった事などが、私が刑務所に入ってしまった後の民事訴訟の過程で明らかになった。尚、私も被害者も深夜出勤だったが、私が自転車で通る人気の無い(しかし車の事故に遭い難い)道では事件の約1ヶ月にホームレスの撲殺死体が発見され「少年グループの犯行とみて捜査中」との報道が各メディアで流された。刃渡り18.5センチのサバイバルナイフを持参しながら一審判決が渋々「計画性までは認められない」としたのもこの為だが、こうした事情も誰も知らないままだ。
 日本の弁護士は殆どが「弁護官」の自己イメージを持っている、永らく閉じた世界における判事や検事との折衝を重ねる内、事件の背景や社会的位置付けを行なう能力を完全に失った挙句、流れ作業的な人の扱いを当然と思っている節も見られる。11年4月には被告人の無罪主張を反映しない弁護活動を高裁判事に「違法があった」と指摘される弁護士の例も報じられた。この指摘をした飯田喜信・東京高裁裁判官(当時)の振る舞いは、今思えば極めて果敢な行為だったのかも知れない。その飯田氏は今月2日付で束京高裁部総括判事のまま「依願退官」したが、私の控訴審で証拠開示請求を理由なく却下しながら、弁論前にその事に対するこちらの反論内容を事前に教えるよう弁護人に打診する姑息さを見せ、翌年5月には政党紙配布判決を巡り本紙社説で名指しで批判された出田孝之氏の様な人物が高松高裁の長官職に就く時勢に鑑みれば、である。弁護士との隠微な関係を壊さない限りは裁判官が安泰である以上、「有論」や社説で提案されている「法曹三者での検討」を信用する事は出来ない。ましてや先述諸沢教授の極論を対論も示さず(イメージ上の「解毒」を施した上で)引用するメディアが監視役とあっては尚更だ。
 諸沢氏を紙面に登場させた読売新聞はその年12月、福井女子中学生殺人事件再審決定を受けた社説で「一審開始時から被告に防衛の機会を与えて初めて公正さが担保される」等、その対となる論も示している。前述飯田判事の「英断」を報じたのも読売である。翻って本紙天声人語は昨年6月22日の回で、東京電力の事故調査報告書の内容を批判するに当たり「真実に迫れるはずなのに白己弁護に熱心なのは被告人の陳述と思えば合点がいく亅と述べ未決拘留段階にあるに過ぎない一般人に対する偏見或いは悪意の片鱗を垣間見せていた。対象の来歴を詳らかにする事が往々にしてその不法行為を阻止する契機となってきた歴史に鑑みれば、冤罪根絶を訴えるメディアは「被害者学」を参照する以前に判事や検事について詳細な報道を行なうべきである。また、起訴時に「被害者」とされる人物においても、その情報は時に、被告人に防御の機会をつかむ手掛かりや、裁判員等に客観的な視点を提供する公正な判斯材料にすら「化ける」。逮捕、起訴時には現実として確定され得ない「被害者対加害者」という観念の相対化作業を捜査、報道機関が忌避し、そうした可能性を奪うのは、決して「誤」の問題ではなく全ての国民にとって利敵行為となる犯罪である。捜査、報道機関によるこの「再犯」防止の為、各機関は「被害女性」のイメージを楯に情報の有効活用に資する詳細情報の提供を止めるべきではない。差し当たっては、未決段階の市民を東京電力と同じ括りで論じた先述「天声人語」に猛省を促したい。
(以上3024文字。平成25年8月12日執筆。翌日より懲罰の為同月28日付で「私の視点」に投書)。

 

⑭題名:当事者は、実情を前提に発言を

 6日オピニオン面で元家裁判事でもある多田弁護士のインタビュー記事を読み、少年審判における推定無罪法理維持の難しさを知った。警察や検察の全調書開示が主な要因との事だが、対比材料として現状の刑事裁判制度を示す文脈には、法廷での冤罪誘発が絶えない実情認識の点で違和感がある。同意不同意での提出証拠操作の権限は被告側のみならず、検察にも与えられており、被告人は余程特権的でない限りその仕組み自体を知らない。
 そしてこの点に無頓着である為に致命的な不利を結果してしまう弁護士が少なくない。
 私自身の場合無頓着では済まされない。一審弁護人は「裁判官は女性の証言を余り疑わない」からと私の意に反し嘘の供述に同意した。供述者の女性性との無縁を示す暴言をデータ保存していたが、典型的な機械音痴の老弁護人は同意に抗議するものを含む私の書簡全てを二審結審前後に無断で廃棄した。事件当時のネット記録は5年も保存し、二審では手紙1通を情状証拠として取り寄せた経緯に鑑みて実に不自然である。一審の相弁護人は、控訴して弁護人は2人付けろと弁護の質に迄配慮した助言をくれた。それでも得られる結果が最悪のものである事は変わらない。刑事裁判制度の表面的な理解がこうした実情を隠蔽し、それが法曹界に迄浸透したとも感じさせる記事だった。(以上全546文字。平成25年9月16日記。17日提出。18日発送の予定だったが、17日に回収されず、同日午前10時頃~翌18日午後3時頃迄「保護房」に収容された為、翌週の発信受付日である9月25日(水)か26日(木)に発送予定→26日発信)。

 

⑮題名:忘却と戦う、もう一人の「ゲン」

 松江市教委が『はだしのゲン』の閲覧制限を行なった事について本紙紙面審査委員の斎藤美奈子氏が「より批判しにくい案件」に切り込むべきとの趣旨で苦言を呈していたが、その為の比較検証として平田弘史作『血だるま剣法』が最適だと私は考える。
 『ゲン』が良識的に戦争を批判する一方、『血だるま~』の幻之助は戦の世に被害・加害双方の立場で生きる人間の真実を活写する。表面的な平和の嘘を暴く事が反戦のメッセージに現実味を与えるに不可欠であり、その点でもこの作品は格好の教材として認められるべきだ。現在発売中の『血だるま~』ではメディアによる発表当時の弾圧の経緯が開設されており、『ゲン』の良識がこの騒動を参照した上で慎重に練り上げられた事も窺わせる。概ね中流以下の階層出身者による文化的市民権も無い貸本劇画を、低俗極まりない悪風俗と見なし「はなから批判だの批評だのを目指していない文章」で「後にマンガの理解者のようにふるまう直前までマンガ叩きをしていた」『赤旗』の記事が引用されている。そうした経緯を踏まえると来月の宮城県知事選に日弁連元副会長が共産党推薦で立候補するとの報道は、戦争や差別に形を変え温存された陰の歴史が貧困や冤罪に与する法曹界の談合に連なる事実認識に発展する第一級の史料として活用すべきだ。
(以上全546文字。平成25年9月23日(月)記。26日発信)。

 

⑯題名:FD改ざん3年 -弁護側も襟を正す契機に-


 裁判員制導入から4年4ヶ月。導入3年後に行われる筈の見直しは棚晒しのまま、本紙はFD改ざん事件3年と銘打ち全国52弁護士会にアンケートを行ない17日発表した。実に12人の弁護士が実名で検察の取り調べや証拠開示への不満を言い募っていたが何れも傍観者であり、笠間治雄、元検事総長の「及第点を貰うのは難しい」との落とし所に誘導される感覚に、私は陥った。被疑者だった村木厚子氏に無罪が言い渡された後に、公判で開示されなかったFDが返却され、普通なら誰も顧みないFDを本紙記者が解析し、改ざんは発覚した。改ざん自体は冤罪を生んでいない。改ざんの有無と関係な<、また村木氏曰く「魔術のような怖さ亅の取り調べにも拘らず村木氏が無罪判決を得た理由は、偏に無罪請負人と呼ばれる弘中淳一郎弁護士の功績であり、その頼もしさあってこそ村木氏をして不当な取調べや勾留に耐えさせ得たとも言える。弘中氏の弁護は、先の陸山会裁判等で詳しく報じられた通り非常に鋭いものだが、その弘中氏もFDの非開示に迄は言及しなかった。FD無しでも無罪になったからどうでもよい事だが、果たしてFDが開示されていたら弘中氏はそこから改ざんの痕跡を発見しただろうか、と嫌味な想像をしてしまうのは、弁護士のITリテラシーの恐るべき低さに私自身が泣かされ続けているからだ。元判事という一審の老弁護士は「ハードディスク」という言葉を知らず、更には一度箱から出した物を元通りにしまう事すらままならない有り様だった。二審からの弁護人は当時40代半ばと若かったが、ワープロソフト操作に難があり、意味が反転してしまうものも含め30個近い誤字脱字を書類毎に連発し、挙句私を他の依頼人らしき人の名字で数回に渡り呼び、誤字の訂正に7ヶ月かかる事もある。現在非開示設定の私のブログ開示を依頼し、IDとパスワードを教えたが、それらをハンドルネーム検索欄に入力し「見つからない」と述べ、私が誤りを指摘してから現在まで2ヶ月、音信不通である。デジタル技術はあらゆる分野で、今迄隠されてきた不合理を暴くという。この3年間、毎年憲法記念日になると竹崎博充・最高裁長官が、口頭でのわかりやすい審理への「原点回帰」を訴えているが、私の事案に鑑みれば竹崎氏は、インターネットにより飛躍的に社会への問題意識を高めた国民を、未だ自分の頭で物を考えない法曹のレベルに繋ぎ止めたいだけと映る。私の立場から見れば、強引な取り調べによる検察の供述誘導よりも、世論との乖離から無自覚に生じる弁護人の「見落とし」の方が遥かに脅威である。法曹三者の中で弁護士だけが、引き受けた仕事を放棄する裁量を持ち、上司による作業精度のチェックも無く人事考課と無縁なのだ。これぞ殿様商売ではないか。ここ迄PC音痴でいられる業職は、IT革命自体が過去のものといえる現在では珍しく、ましてやIT普及により変化した人間関係の在り方や庶民感
情を酌み取り、案件を正しく理解する能力は凡そ期待出来ない。最近、法曹人口増加方針が撤回されたが、そうでなくても国民に施される弁護の総量は実質的には減少しているのだ。
 先述弘中氏の弁護は報道を見る限り、その点で珍しく世間一般の思考スピードに同調したもので、陸山会裁判の記事を読んだ人は他の弁護士も同様の機敏さや明晰さを持ち全国に遍在すると危険な誤解をするかも知れない。殆どの弁護士は民事に仕事の軸を置き、刑事弁護はその為「やっつけ仕事亅になりがちである。自腹(プロバイダ料等)を切って自ら所有する情報を提供し合っている「IT革命」後の世の中と、文化自体が隔てられているように私には感じられる。私にとって更に絶望的だったのは、先述弘中氏が小沢一郎村木厚子等「紹介された人」に顧客を限定している事だ。即ち実質約には刑事司法での推定無罪原則はいわば会員制クラブ内のゲームに過ぎず、「有罪率99.9%神話」から殆どの弁護士は有罪請負人だとすら言えるのだ。従って、冤罪防止実現のためには、弁鑼士のITリテラシーを含む「民意を酌む力」を定期的に点検し、時代に取り残された人には退場して頂いた上で、積極的な法曹人口増による同業者間の切磋琢磨を促す、弁護士免許更新制度導入も視野に入れた改革が必要とされる。現状の弁護士による検察批判には当事者としての重みが全く感じられず、予定調和の誹りは免れない。先述私の弁護人2人が就いたら、今頃小沢氏は政治生命を失い、村木氏も塀の中である。通常、事故発生で最初に故障が疑われるのはブレーキ等の「制御装置亅である。民間人が汗を流して得たこの暗黙知を、人の一生を左右する司法の現場が無視してよい筈がない事は自明の理である。
(以上全1919文字。平成25年9月24日(火)記。26日発信。)

 

⑰題名:冤罪が減らない理由


 日本の有罪率が99.9%である事について考える時、私達はそれが刑の確定時の数値だという事に対し無頓着過ぎはしまいか。冤罪被害者にとって、そこに至る全てが初体験でありそこから見えた問題点の体系的理解や説明に要する時間や労力は途方もない。
 昨年7月から本紙に冤罪問題への提言を種々投書してきた私は今回そもそも私の身に起きた操作や裁判での異常な出来事をまとめた文書を送付しようとした。昨年4月に便箋14枚に短縮して記し実家の者が拙いながらワープロ処理し、これを読んだ一般人男性が「これが本当なら裁判自体無効では」と見ず知らずの私に手紙をくれた程の内容でその後事実確認をして頂いた物だ。横書き便箋は1行25文字、1通につき7枚までとの規制に従い2通に分けてやっと発信出来た物だがワープロ処理すると4頁に満たない。ところが弁護士やNPO宛ての手紙への同封は許可されたそれが今回初めて同封不許可とされた。同封を許可し得る物品に規定されていないとの理由で呆れる他ない。これでは雪冤に必要な説得力が予め奪われたも同然で、多くの再審請求が被告の出所後に行なわれる理由はここにある。長期刑なら殆どの事件は再審請求時に風化し、世論にも顧みられない仕組みが出来上がっている。
 有罪率が修正されない風土の、拍子抜けする様な真相だ。
(以上全548文字。平成25年10月8日(火)記。→9日投書)